BOGGYのイタリア料理と山と野草

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二つの俳句に思うこと

丸山応挙-田植え

丸山応挙-田植え



日毎に田んぼに早苗の緑が濃くなって来る風景を眺めていると、原発のせいで故郷では田植えも出来ないでいる現実に胸が潰される思いがする。
そんな時に、田植えを読んだ俳句を思い出した。

『賤が植うる 田歌の声も 都かな』ひつと斎
『里人は 稲に歌詠む 都かな』芭蕉

長いこと、アイデアがあって書きかけになって放って置いたものを取り出して続けてみた。




岐阜で一人住まいを始めた十年前、良く行くリサイクル・ショップの本棚で、馬上の武者を描いた表紙絵に、「一夢庵風流記」のタイトルで、隆慶一郎という作家の本に出会った。

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本の始めの章は『かぶき者』とあって、この章の始まりを引用すると、
≪『かぶき者』は『傾き者』、『傾奇者』とも書く。最後の書き方が最も端的に言葉の内容を示しているように思われる。
他に『傾(かぶ)く』という動詞や『傾(かぶ)いた』という形容詞もある。
つまりは異風の姿形を好み、異様な振る舞いで人を驚かすのを愛することを『傾く』と言ったのである。≫

この一文を読んで私は織田信長を思い出したのだけれど、この本は、前田慶次郎という聞いたことも無かった戦国時代の武将の話だと分った。
ほとんど新品に近い帯付きの、定価1500円の単行本がたったの200円だったということで、買う気にさせられた事も否定しないけれど、初めて聞いたこの武将の名に強く惹かれて買ったのである。

日本の歴史的人物の伝記など、子供時代に豊臣秀吉、織田信長、宮本武蔵を読んだ程度で、以後西洋の文学・小説に偏った私が、こんな時代小説を手にするのも、老人の入り口に立った年齢のなせる技かもしれない。
連綿と続いていたNHKの大河ドラマは、これまで一度たりと見たことが無いのだから、これは心境の豹変と言えるのかもしれなかった。

読んでみるとこれが実に面白い小説で、歴史的に遺された資料がほとんど無い人物なので、多くは作者の想像の世界で書かれたにせよ、ぐんぐん引き込まれる面白さだった。
最後に慶次郎は上杉景勝に従って米沢へ移り、禄僅かに三百石を受け、己を『無苦庵』と称し、郊外の堂森の地に隠居し悠々琴書を友とし、風月を楽しんで余生を送ったという。
小説の結びの文は、慶次郎自身の書いた日記『無苦庵の記』からの引用だった。
≪抑も此の無苦庵(慶次郎のこと)は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し。
こころは墨に染ねども、髪結がむづかしさに、つむりを剃り、足の駕籠かき小者やとはず。
七年の病なければ三年の蓬も用いず。雲無心にして岫を出るもまたをかし。詩歌に心なければ月花も苦にならず。
寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。
九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八幡地獄におつべき罪もなし。生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。≫

今福匡の「前田慶次郎-武家文人の謎と生涯」には、この文の解釈が載っているので、引用させて貰う。
『そもそも、私こと無苦庵には、孝行をつくすべき親もいなければ、憐れみいつくしむべき子供もいない。
わが心は墨衣を着るといえるまで僧侶には成りきらないけれども、髪を結うのが面倒なので頭を剃った。
手の扱いにも不自由はしていない。足も達者なので駕籠かきや小者も雇わない。
ずっと病気にもならないので、もぐさの世話にもなっていない。そうはいっても、思い通りにならないこともある。しかし、山間からぽっかり雲が浮かびあらわれるように、予期せぬこともそれなりに趣があるというものだ。
詩歌に心を寄せていれば、月が満ち欠け、花が散りゆく姿も残念とは思わない。
寝たければ昼も寝て、起きたくなれば夜でも起きる。極楽浄土でよき往生を遂げたいと欲する心もないが、八万地獄に落ちる罪も犯してはいない。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬというだけのことであろうと思っている。』

この一文に、岐阜での一人暮らしで日々思う事をかえり見たときに、同じ心境であることに胸が熱くなったのだった。
この本を読んだ当時は、インターネットで「前田慶次郎」を検索しても、ほんの数行しかリストされなかったのだけれど、数年前に同じことをしたら、10ページを越える膨大なリストが検索されたので驚いた。
この数年間で、これまでほとんど無名だった前田慶次郎に一体何が起こっていたのか、その謎の解明に取りかかった。

NHKの大河ドラマも、民放のテレビ番組も、新聞も読まない私は、ポッカリと世の中の情勢についての盲点が多くて、世間の人に付いて行けない面が多い。
これもその一つで、2009年頃から、私が知らないだけで世間では「歴女ブーム」が起こっていたのだった。
歴女という新語のWikipediaを見ると、
≪2009年(平成21年)、兜の前立に「愛」の字をあしらった直江兼続を主人公として、イケメン俳優が多数出演するNHK大河ドラマ『天地人』が放送されると、「歴女」は当初の同人女のみならず、一般女性にも広がりを見せ、しばしば各メディアで取り上げられるようになった。≫とあった。

原因はこれである。
前田慶次郎は加賀藩主前田利家の甥(長男利久の養子)で、戦国武将として活躍し、上杉景勝・直江兼続主従を慕って上杉に仕官し、関ヶ原合戦の際、直江兼続の切腹を諌めたのち、最上軍と奮戦した。
関ヶ原合戦以降、諸大名を見限り隠遁し、米沢で没した。
つまり前田慶次郎と直江兼続とは主従関係と同時に文芸の面でも深い友情を培う関係にあった。
私はドラマ『天地人』は見てないので、前田慶次郎がどんな扱いで紹介されたのかは知らないけれど、以後歴女達の中に前田慶次郎ファンが激増した結果なのだと思う。

この直江兼続と前田慶次郎の深い関りを象徴するエピソードがある。
慶長7年(1602年)米沢へ減封となった上杉家で、三百石しか禄を送れないことに心苦しく思っていた兼続を慶次郎は気遣って、こちらが勝手に上杉家に飛び込んだだけで、人は日に米は三合、畳は一畳あればよく、飢えないだけの禄で十部だと慰めた。
前田慶次郎が米沢へ立つ時、直江兼続を気遣って詠んだ句がある。

『賤が植うる 田歌の声も 都かな』ひつと斎(前田慶次郎)

≪民、百姓が田植えをしながら歌う田植え歌が響く米沢は、なんら京の都と変わりがありませんよ≫
戦場で敵と戦う武将に求められる文武両道の理想とは、こんな細やかな人への思い遣りの感情が、激しい戦意と共存することなのかもしれない。

『上杉将士書上』の前田慶次郎に関する記述の中に、
≪後関ヶ原一戦、景勝、米沢へ移り候節、諸家にて招き候へども、望なしと申して、妻子も持たず、寺住持の如く、在郷へ引込み、弾正太弼正勝の代に病死仕候。連歌を嗜み、紹巴の褒美の句、数多く有之候。此一句も、褒美の句に候。
賤が植うる田歌の声も都かな ひつと斎≫
とあって、前田慶次郎の代表的な句の一つであることが分かった。
文中の"紹巴の褒美の句"とは、戦国時代にもっとも優れていたと言われている連歌[れんが]師、里村紹巴(さとむらしょうは)で、紹巴にその句を褒められたということである。

私がこの句を知ってしばらくして、何かの機会で、今度は松尾芭蕉の『里人は 稲に歌詠む 都かな』という句に出会った。
私は全く俳句や短歌には興味がなく、百人一首の一首さえそらんじる事が出来ないのだから、滅多なことでは短歌や俳句に目が行くことなど無いのだけれど、何故かこの句は目に止まった。

この句は、元禄一年(1688年)芭蕉が四十五歳の時、『笈の小文』の旅で、伊賀―奈良、吉野を訪問し、4月12日に誉田八幡に投宿した際に詠んだ句である。
この句の解釈は、≪村人がにぎやかに田植え歌を歌って田植えに励む。この豊かな里は、雅の和歌をたしなむ人の多い京の都にも劣らぬ、立派な都だ。≫とある。

私はこの句に会った瞬間に、何か似ている句があったと感じて前田慶次郎の句を思い出した。
この二人の句は、田舎を象徴する「田植え歌」と都会の「都」が対比されていて、しかも、「都」が奈良や京都を指すものでなく、象徴化された使い方になっている、独特の句の構造なのである。
はたして芭蕉は前田慶次郎の句を知っていたのか?
こんな考えが浮かぶと、つい私の調査癖が姿を現して、徹底的に調べ上げることになった。
まず昔の俳句では常套句?とも言える「みやこかな」が使われている句を探してみると、室町幕府が置かれる1400年代では、
さくらいろに-そめぬそてなき-みやこかな 宗祇句集
はなさかり-ひとはたひなる-みやこかな 新撰菟玖波集
やまやゆき-ふらぬひつもる-みやこかな 新撰菟玖波集
あきかせに-かへらははなの-みやこかな 新撰菟玖波集
つきにこひ-つきにわするる-みやこかな 新撰菟玖波集
はらひこし-みねのゆきまつ-みやこかな 宗祇句集
ちるあとと-おもはぬはなの-みやこかな
しくれにも-やとはのとけき-みやこかな
かすみをも-またてはるたつ-みやこかな

そして朝廷が衰えを見せ始めた1500年代では

たをりきて-はなのたひたつ-みやこかな 天正四年万句
ふりつもる-ゆきをやまなる-みやこかな
あらしさへ-おもふははなの-みやこかな
しほかまや-つきをもうつす-みやこかな
あきののは-ちくさのはなの-みやこかな
ふしやゆき-さみたれさむき-みやこかな
またれしと-はなもおもはむ-みやこかな 春夢草/太田武夫本
やまにても-つゆわすらるる-みやこかな
そらにのみ-すまぬもつきの-みやこかな 園塵第三/続群書類従本
やまのはに-みてもゆきまつ-みやこかな 園塵第三/続群書類従本
やまさくら-にしきをりしる-みやこかな 細川家二月二十五日一日千句
やなきふく-かせにあきたつ-みやこかな 明応年間百韻

「みやこかな」の句はこれだけ見つかったけれど、ほぼ全ての句が直接奈良や京都の「都」を指す歌になっていて、慶次郎や芭蕉の句のように、田舎との対比で、「みやこ」を京や奈良の人の集まる所のような直接的な「都」を指さずに、文化的、風雅というような意味で「みやこ」を抽象的、象徴的に使った歌は、1500年代までではあまりみかけない新しい概念、用法ではないかという印象を持つようになった。
1600年初頭の慶次郎の作歌は、1500年代に続く句の構成としては型破りな、言葉を変えれば画期的な作風と言えるのかもしれない。
およそ五十年の時間を隔てて、二人の歌人が、作句の構想を練る中で、これが純粋な偶然で一致したのだろうかと、つい考えてしまった。

『上杉将士書上』によれば、前田慶次郎は、一条兼良(関白)、西園寺公朝(右大臣)、三条公光(大納言)、紹巴、千利休などと交友があったと記されている。
また、慶長六年には自身の日記『前田慶次郎道中日記』を遺したりしていて、決して東国の無名の歌人ではなかった筈で、50年を隔てて、際立つ個性的な構造の二つの句が作られたが、これが偶然の一致であって、芭蕉が前田慶次郎の句を知って、その影響を受けた可能性はあるのか無いのか、とても興味の湧く、時代の謎を見つけたような気がした。
こんな名句を遺した前田慶次郎は、やはり只者ではない『かぶき者』だったのかもしれない。
閑話休題。


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