BOGGYのイタリア料理と山と野草

イタリアファンのBOGGYが作って食べるイタメシのプログです。 登山、ピクニックのアウトドア・イタリアンはいかがでしょう。 革工芸も始めました。

西部劇二つのオスカー賞

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1990年に、映画史を書き換える大事件と言える映画が公開された。
その映画は「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(Dances With Wolves)で、ケビン・コスナーが初監督でかつ主演をした西部劇だった。



公開されると、西部劇としてこれまでに例を見ない大ヒットとなり、アメリカ国内では約1億8400万ドル、全世界で約4億2400万ドルの興行収入を稼いだ。
そしてケビン・コスナーは、俳優出身の監督として初監督作品で、アカデミー監督賞を受賞した。

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1980年にロバート・レッドフォードがやはり初監督作品の「普通の人々」で1980年のアカデミー監督賞を受賞し、翌年ウォーレン・ベイティが監督・製作・脚本・主演をした「レッズ」(Reds)で1981年のアカデミー監督賞を受賞。この二人につぐ俳優監督としての快挙でもあった。

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そして「西部劇」のジャンルに於いては、アカデミーの監督賞、作品賞という映画の質的価値を表す重要な賞は、ウェズリー・ラッグルズが「シマロン」(Cimarron)で、1930/31年のアカデミー賞最優秀作品賞、アカデミー賞最優秀脚色賞を受賞して以来、59年ぶりの表彰となり、西部劇映画の歴史を書き換えることになった。

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1930年以降での西部劇でのオスカー受賞は、1952年に「真昼の決闘・ハイヌーン」で、ゲーリー・クーパが、アカデミー主演男優賞、1969年に「勇気ある追跡」で、ジョン・ウェインがオスカー主演男優賞を受賞したのみで、オスカーはとても西部劇には冷淡であった。

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1969年に、"最後の西部劇"と銘うって、サム・ペキンパー監督が発表した「ワイルドバンチ」(The Wild Bunch)はサム・ペキンパーの傑作と言われながらも、興行的には無残に撃沈したが、逆にジョージ・ロイ・ヒル監督の「明日に向って撃て」(Butch Cassidy and the Sundance Kid)は、興行収入総額で1億2百万ドルを記録して、1969年の全映画での興行収入のトップになった。
これがそれまでの西部劇の興行収入の記録だったのだから、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」は、およそその4倍という桁違いの記録と言える。
この作品がいわゆる西部劇ファンではない観客までも映画館に動員したことを証明している。
これこそ"最後の西部劇"を越えて"新しい西部劇"が誕生したのだとも言える。

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「ダンス・ウィズ・ウルブズ」は、従来の西部劇の枠組みや観念から大きく離脱、飛躍して、インディアン民族を克明に描き、開拓魂(フロンティア・スピリット)という価値観でネイティブな民族の排除を正当化していた時代を痛烈に批判する、新しい視点に加え、西部の壮大な自然を映し出したスクリーンにダイナミックなストーリィを重ねた、とても見応えのある映画であった。

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この映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の出現と、ケビン・コスナーのアカデミー監督賞で一番ショックを受けたのは、クリント・イーストウッドではなかったかと思う。
イーストウッドの俳優としての主な舞台は西部劇であり、大スターとしての地位も西部劇への出演によって築いたもの。
そしてイーストウッドはコスナーがこの映画を手がける19年も前の、41才の1971年「恐怖のメロディ」(Play Misty For Me) から、映画監督として活動を始め、1980年までに16本の映画を監督していた。
これまで、イーストウッドはオスカーとは全く無縁の存在で、あれほどの大スターが、オスカーにかすりもしないのも珍しく、西部劇というオスカーが冷淡なジャンルに身を置いた不幸でもあった。
監督として製作した西部劇も「荒野のストレンジャー」(1973年)、「アウトロー」 (1976年)、 ペイルライダー (1985年) の三作があって、俳優監督の西部劇ではコスナーの先輩にあたる。

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ある意味で、イーストウッドがマルパソ・プロダクションを設立して、西部劇以外の様々なジャンルの映画を作ったのは、彼自身のオスカーへのチャンスもそこに有ると考えていたのかもしれない。
まして、コスナーは35才で、初監督の西部劇の映画でアカデミー賞を獲ったのだから、その時既に60才のイーストウッドにはかなり思うことがあった筈である。
強いて言うなら「コスナーにやられた!」という気持ちだったと思う。

しかもあれほどに冷淡であった西部劇でも、オスカーが獲れるという現実を目の当たりにして、自分も西部劇でオスカーを獲れるかもしれないと、一つの光明を見出したのかもしれないし、頑張れ!と肩を叩かれた気分になったのかもしれない。

1990年当時、イーストウッドが持つプロダクション「マルパソ」は、製作した映画が興行的には不調が続き、「ホワイトハンター・ブラックハート」 (1990年)などの失敗作で、マルパソの台所は火の車であった。
あげくにソンドラ・ロックとの慰謝料のトラブルが追い討ちをかけていた。
そして巷では、「イーストウッドはもう終わり」と囁かれてもいた。
しかし、その年の終わりには、公開した「ルーキー」が4千3百万ドルほど興行収入を稼いだおかげで、マルパソは一息付けたし、ロックとのトラブルにもようやく決着が付き、イーストウッドの映画制作への意欲も戻る時期にあったと思う。

イーストウッドも年齢的には60才となり、峠を迎えており、映画でオスカーを狙う最後のチャンスと考えたと思う。
そしてイーストウッドは西部劇「許されざる者」で、アカデミー獲得を狙う大勝負に出て、その製作を決意したのである。

イーストウッドはデヴィッド・ピープルズが書いたこの映画の脚本を既に買い取っていて、ペイルライダー (1985年)の製作以前に、この「Unforgiven」当時の原題「The William Munny Killings」は、マルパソ内部で一度企画されたことがあった。
この映画公開後のインタビューで、「製作が遅れたのは、自分が主人公のマニーと同じ年齢になるのを待っていた。」とイーストウッド自身が言っているが、まあ納得の行く説明ではあると思う。
しかし、私は「ダンス・ウィズ・ウルブズ」のオスカー受賞が大きな刺激、影響を与えた結果だと思う。

これまでのイーストウッドは「名無しのガンマン」のイメージで持っていたわけで、これまでと同じガンマン映画では、到底オスカーに手が届かないことも百も承知であったと思う。
それでも四度、「ガンマン」が主役の映画を作る気になったのは、自分がガンマン映画の知識と経験があり、その土壌を活かして、新しい視点、構想の映画が作ることが出来るという自信があったのかもしれない。
その意味で、この「許されざる者」はガンマンが主役であっても、これまでのガンマン映画の構成とは一線が画され、正義の旗印の町のシェリフが悪役に回るなど、従来の西部劇の映画手法をパロディ化するような逆手の映画になっていて、従来の映画への辛辣な批判ともとれる内容の、深みがある映画になっていたと思う。
こうしてイーストウッドが温存していた西部劇映画を、1969年にサム・ペキンパーが掲げた"最後の西部劇"のキャッチフレーズを敢えて使い「許されざる者」を"最後の西部劇"としたのである。

その制作費は5百万ドル、ケビン・コスナーが自費で2千2百万ドルを「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の制作費に当てたのとは桁違いに小額だけれど、マルパソは元々小額の制作費でしか映画は作らない(作れない)のだ。
このため、舞台となる町の"The Big Whiskey"のセットは、わずか32日間で完成させ、なんと撮影自体もわずか39日間で終了したという。
これだけを見れば、いいかげんなやっつけ仕事の映画に思えるけれど、イーストウッドはこの脚本を温めていた長い期間に、ほぼ完璧な構想が出来上がっていたとも考えられる。

そして、これまでマルパソ映画のキャスティングでは考えられなかった強力な俳優を配置した。
まずジーン・ハックマン、1971年「フレンチ・コネクション」主演男優賞を受賞した、オスカー俳優である。
そしてモーガン・フリーマン、彼は1987年のアカデミー助演男優賞、「NYストリート・スマート」、1989年のアカデミー主演男優賞、「ドライビング・ミス・デイジー」、1994年のアカデミー主演男優賞、「ショーシャンクの空に」でそれぞれノミネートされたアカデミー級の俳優である。
この豪華キャストで鉄壁のオスカー対策を施したとも言える。


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しかしイーストウッドのお得意の、その時の愛人女優を使うというキャスティングは続いていて、以前のソンドラ・ロックから、「許されざる者」ではフランシス・フィッシャーになっていた。
この二人の女優さん、非常に個性的でいわゆる美人女優の範疇には入らないけれど、よくよく見ると二人はどこか雰囲気が似ていて、これがイーストウッドのお好みの傾向なのでしょう。

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話題を戻して、イーストウッドがこの映画を温存していた期間に、相当に脚本をいじくり廻して構想を練っていたが、結局は元の脚本に戻したという。
例えば、この映画は、始まりと終わりにナレーションが入る構成になっている。
イーストウッドの映画にはかつて見られなかったような構成になっていたが、これはデヴィッド・ピープルズが書いた脚本の内容そのもので、この脚本をネットで見つけて見て確認することが出来た。


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オリジナルの脚本のエンドシーンのナレーション原稿



イーストウッドがこの映画で本気でオスカーを狙っていたと考えられる証拠の一つに、この映画のプロモーションをワーナーに委ねたということがある。
これまでマルパソの作品は、基本的にマルパソ独自でプロモーションをしていたが、この映画に限ってはワーナーに任せ、積極的で確度の高いプロモーションを選択したとも言える。
また、これまでは毛嫌いしていた、マスコミ用の宣伝パーテイも積極的に出席するようになったし、この映画のメイキング・ドキュメンタリーの製作も承諾したし、宣伝のためにTVのショウ番組にも出演したり、これまでとは異例と言われる様々な宣伝活動を積極的に行った。

そしてついにイーストウッドは、マルパソでは前例のない全世界で1億5千9百万ドルという大ヒットを背景に、1992年オスカーの監督賞、作品賞を獲ったのである。
59年ぶりにケビン・コスナーが西部劇でオスカーの監督賞を獲り、60年もの時間の隔たりに比べて、それから2年という短期間でイーストウッドがオスカーを獲った。
この歴史的急展開は自然なものではなく、イーストウッドの強烈な意志があっての結果であると考えない訳には行かない。
イーストウッドのケビン・コスナーショックがどれほどに強烈だったのか、それがイーストウッドを奮い立たせたとも言える。
イーストウッドのオスカー受賞のシーンで、彼のさりげなく振舞おうとする仕草から、逆にイーストウッドかどれほどオスカーを望んでいたかが感じられる。

Clint Eastwood winning an Oscar® for "Unforgiven"

そして受賞の翌年、イーストウッドはケビン・コスナーと組み、「パーフェクト・ワールド」を製作、監督をする。
そしてケビン・コスナーと共演もしたのである。
ここには、イーストウッドのコスナーへの敬意と親近感が感じられ、もし、イーストウッドが「許されざる者」でオスカーを手に出来なかったとしたら、逆にこの映画は絶対に生まれなかったと思う。
そしてイーストウッドの時代はそこで終焉を迎えていた筈である。

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「許されざる者」の成功がイーストウッドにとって大転換点になって、マルパソ・プロダクションは、「ザ・シークレット・サービス」で1億2百万ドル、「パーフェクト・ワールド」1億3千5百万ドルとヒットを飛ばし、監督としての力量を示したのみでなく、イーストウッドの黄金時代を財政的にも確立したのである。

これまでクリント・イーストウッドとケビン・コスナーを関連付けて書いた人は誰もいなかったけれど、こんな重大な背景が二人にあったのでは?と、日頃私自身が感じていた事を書いてみた。


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コメント


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風花老師殿お久しぶりです。
まさか老師の目にとまるとは恐れ入谷の観音様でした。
以前から一度食事などしながらゆっくりお話をと思っておりましたが、本当に一度いかがでしょう。

BOGGY | URL | 2010-11-03(Wed)22:34 [編集]


久々に襟を正して読ませていただきました。

「ダンス・ウィズ・ウルブズ」は、後味が寂しかった。忘れた頃なら、もう一度観てもいい。
「許されざる者」、これはもう、年に数回観てもいい。
「ダーティー・ハリー」の第1作目は、強烈な印象が残ってますよ。冒頭の銀行強盗に出くわしたシーンは、今でもワクワクします。

風花老師 | URL | 2010-11-03(Wed)07:00 [編集]