BOGGYのイタリア料理と山と野草

イタリアファンのBOGGYが作って食べるイタメシのプログです。 登山、ピクニックのアウトドア・イタリアンはいかがでしょう。 革工芸も始めました。

臥竜の石庭(3)

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作庭の謎

竜安寺の石庭がいつの時代、だれによって作られたのかはいまだに謎である。そしてその石庭の解釈も百花繚乱のごとくに多説が存在している。



それでもまた幾つかの新しい検証や仮説が生まれている。
最新の検証は、龍谷大の宮元健次助教授によるもので、これまでは文献中心だった庭園研究に考古学的手法を導入して調べた。
宮元氏は寺の許可を得て、白砂の下の粘土層を掘り出し、奈良文化財研究所に年代鑑定を依頼した。研究所の回答は「江戸初期」であった。塀の造成については、江戸の地層の上だということは既にわかっていた。
現在の石庭の成立は、寺の建立から遅れること二百年近く、江戸時代初期だと宮元氏は特定した。
そして、作庭者は江戸時代初期の幕府の作事奉行にして茶人の小堀遠州だと推定している。
遠州は、慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり修築の功により従五位下遠江守に叙任される。この官位により通称・小堀遠州と呼ばれるようになる。
この時期に遠州は江戸城の庭園など数々の建築や庭園を手がけているので、竜安寺の現在の石庭の作庭をこの遠州だとするなら、勝元の子・政元が長享2年(1488年)に義天禅師の協力を得て現在地に再建してから約120年以上の時間差が出来ることになる。
作庭の時期が江戸初期であれば、塀の遠近法の採用や、石の配置への黄金分割の利用など西洋の技法の取り込みも、室町時代では時代的矛盾を起こす要因も説明できるようになる一面もある。

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頼久寺の名庭


石庭のデザインの面から考察すると、現在のデザインを遠州のオリジナルのデザインとするには異論がある。
小堀遠州の作といわれる岡山県の頼久寺の名庭は、愛宕山という山を借景とし、庭木や岩を配置したもので、他の多くの遠州の作といわれる庭園も、従来の樹木を取り入れた庭園設計の手法から大きく離脱してはおらず、竜安寺の庭の基本デザインとは全く違い、従来の庭園設計に近いデザイン手法である。
竜安寺の石庭の石と砂だけの作庭のデザインのアイデア、考え方を小堀遠州のオリジナルな発想とするには、それだけが遠州の他の作庭とは特異で異質なものになり、無理があるように思う。
たとえ遠州が竜安寺の石庭を手がけたとしても、基本のデザインの考え方としての石庭の原型は既にそこにあって、遠州はそれを受け入れて遠州なりの西洋の遠近法や黄金分割などの手法を巧みに取り入れてリニューアルしたのでは、と考えた方が納得できる。

現在の竜安寺の石庭が、江戸初期に作られ、遠州が手がけたという新説を否定する根拠は私にはないし、上記の遠州のオリジナルではないという条件でなら、より納得できる面はあると思う。

しかし、この説は、竜安寺再建当時の庭はどんな庭だったのかを説明するものではないので、依然として再建当時の庭は謎のままではあるが、現在のものとは異なるとしてもやはりそれは、石と砂だけの石庭ではなかったのかと、私は思う。
建立当時の竜安寺の庭の図面など記録が全く無いのだけれど、私は現在の竜安寺の石庭のことよりも、竜安寺の再建の時期や、愚渓寺の建立時期である1500年前後の時期に、現在の竜安寺の石庭の原型となった、石と砂だけの、樹木の配置を一切排除した、純粋な石庭の作庭がなされていたのではないか、それは両方の寺にかかわった義天玄承でしかなし得ないのではなかったのかという仮説を主張したいのである。

そうでなければ、永正6年(1509年)に寺が創建された大仙院( 大徳寺 )の室町時代の代表的な枯山水庭園が開祖大聖国師、古岳宗亘禅師によって作庭されているので、大仙院の石庭などが作庭の時期を証明できるという条件で、時代最古の石庭となってしまい、石庭の歴史的位置付けは大きく変わってしまうことになる。
遠州作の竜安寺の庭は、我が大仙院の石庭がその原型であることが判明した、などと大仙院のあの和尚さんなら言い出しかねない。(ここはちょっと冗談)

今回、愚渓寺の存在を偶然に知ってから、この石庭のテーマでインターネットや図書館で色々調べてみたが、竜安寺と愚渓寺の両方について、その作庭に関する義天玄承の関連性や愚渓寺の竜安寺の庭園への影響についての検証など、あたかも愚渓寺などこの世に存在しないかのように、全く取り上げられておらず、完全に無視されているのは非常に不思議に思う。
大岡政談の天一坊ではないけれど、愚渓寺の石庭の歴史が完璧なイカサマ、カタリのもので、議論するに価値なしと無視しているのがその理由なのかと考えて見たけれど、愚渓寺を訪ねて見たかぎり、それほどの大嘘で人を騙すお寺とは到底思えない。とても品の良いお寺で私は好感を持った。
拝観料など一銭も取ることをしないのは、カタリで人寄せを図り、拝観料を稼ぐという意図が全く無いことの証明でもある。
もしかして、京都中心の寺社史跡、庭園の研究家は、美濃の愚渓寺の存在を知らないのではないかと疑いたくなってしまう。それでなければこれほど無視される理由がわからない。
いずれにしろ、竜安寺の石庭にまつわる謎はより深まるばかりと思うようになった。

私がかつて竜安寺を訪れたのは大学生の時で、大学の就学旅行だった。もう半世紀も前になる。
今はこの石庭にはかなり哲学的な深い意味が象徴的にこめられているのではと思っているけれど、私が比較的好きな石庭の解釈はその時に知ったのだけれど、広い砂の庭を「原」と考える見方である。
それが「海原」ならば岩は「島」となり、砂紋は「波」に、砂が「野原」や「草原」なら、岩は「山」や「丘」に、砂紋は風にたなびく「草木」となる。
小学生の子供にも解る解釈、いかにも意味ありげな教義的な解釈は抜きで、単純明快、からりとしているのがとても好きだと思った。
今はもう一度、じっくり竜安寺を訪ねてみたいと思うようになった。(終)


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