BOGGYのイタリア料理と山と野草

イタリアファンのBOGGYが作って食べるイタメシのプログです。 登山、ピクニックのアウトドア・イタリアンはいかがでしょう。 革工芸も始めました。

臥竜の石庭(2)

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 私は、オープンしたての、まだ花もあまり咲いてないのに「花フェスタ」を見に行ったのは、このどちらもが岐阜県の御嵩町にあって、初めて知った愚渓寺の臥竜の石庭をどうしても一目見てみたいという気持ちも強かったからだ。



こうして我が目で見た愚渓寺の臥竜の石庭の全体です。竜安寺に比較すれば広さも、置かれた石の数も少ないけれど、まごうかたなき石庭ですね。
以下は愚渓寺及び御嵩町の観光協会が編纂し、愚渓寺に掲げている公式のメッセージである。
「愚渓寺の創建は古く、応永三十五年(1432年)頃に臨済宗妙心寺派の高僧「義天玄承禅師」が先師の足跡をたどり、鈴が洞の地に愚渓庵を開創したことに始まり、後に永正年間(1504~21年)初頭に愚渓寺となり、東美濃における名刹としてその名を今に残している。
愚渓寺において義天禅師は、「臥竜」(がりょう)と名付けた石庭を作庭し、禅の世界を表現するとともに、修行の道場としての位置づけを与えたとされる。
江戸時代天保年間(1830~1844)になり、愚渓寺は現在地に移築され、二重塔を含めて伽藍が整えられるとともに石庭も再現され、今日に至っている。
優美な姿の御嵩富士を背後にいただき、厳粛な風の流れる大方丈と京都竜安寺の石庭の原型と称されるその前に広がる石庭の姿は、中世の禅の世界を語りかけてくれる。」

ここではなんとこの石庭は「京都竜安寺の石庭の原型と称される」と一歩踏み込んだ表現がなされていて、これこそまさに「石庭の元祖」を名乗っていることになる。

愚渓寺の作庭が、竜安寺の作庭よりも時期が早いことが確かであれば、石庭の歴史的価値や、その重要性は、愚渓寺が取って変わるに値することになる。
現代文明の価値観、考え方として、著作権法や意匠法の考え方をこの石庭にあてはめれば、石庭のデザイン上、思想上での価値は、たとえ竜安寺の石庭の方がより庭園としての完成度が高いとしても、愚渓寺の最初に出現したというオリジナルの価値の方がより高いということがいえる。愚渓寺だって世界遺産に登録される価値があるということですね。

愚渓寺の公式メッセージによれば愚渓寺の石庭は、永正年間(1504~21年)初頭に愚渓庵から愚渓寺となってここで作庭されたことになっている。
竜安寺は、宝徳2年(1450)に創建された事は間違いが無い。これだと竜安寺が50年早くなるのだが、この創建の年に石庭も同時に作庭されたという証拠はないのである。

また竜安寺は、創建されてすぐに応仁の乱で焼失し、勝元の子・政元が長享2年(1488年)に義天禅師の協力を得て現在地に再建したが、それでも石庭の作庭時期は明確ではなく、1500年頃ではないかという説が有力らしいが、これだと愚渓寺の作庭とほぼ重なる時期となり、またまた愚渓寺の元祖説はあり得ることになる。
応仁の乱では、竜安寺と同様に義天禅師の継いだ妙心寺も消失したので、細川勝元は、現在の京都府船井郡八木町に龍興寺を建て、居場所の無くなった義天玄承を招いた。
それほどに細川勝元と義天玄承の親交は厚く、勝元亡き後、政元が竜安寺を再建することに協力するのは当然の事であると思う。
いずれにしろ義天玄承が同じ時期に二つの寺に関わっていたことになり、どちらが先か後かは非常に微妙な問題なのかもしれない。

竜安寺の石庭は、山口市の常栄寺にある、禅僧でもあった雪舟が作庭した雪舟庭が石庭の手本になっているという別の説もあるが、常栄寺の作庭時期も明確ではなく、1400年代の後半と言われていて微妙である。雪舟は文明13年(1481)には美濃(岐阜県)に来ており、霊薬山正法寺で、過去同じ寺で修行をした万里集九に会い、「金山寺図」を描いて集九に贈っている。同じ禅僧ではある雪舟と義天玄承との交流などがあったのかどうかにも興味を引かれる。
まるで芸人のような、にぎやかな和尚の居る京都の大仙院( 大徳寺 )にも室町時代の代表的な枯山水庭園があるが、1509年(永正6年)に寺が創建されたことが明確で、竜安寺の石庭はこれ以前であることが分かる。
こうして色々分かったことがあるけれどやはり結論は出せなかった。
いずれ事の真相は学者がこれに決着を付けてくれるかもしれないが、とても興味がそそられる歴史ミステリーであることには違いない。
さて、視点を変えて、庭園のデザインという面から、義天玄承の創案したこの二つの石庭を考えると、砂と石と砂の模様のこの単純な三つのデザイン要素の発想そのものが物凄いもので、極限までの象徴化と単純化がなされている。以後、世紀を越えてもこのデザインを凌駕するほどの庭園デザインは現れていない。それほどにこの庭園のデザインは、現代でもモダンであり、かなりの将来まででも「最もモダンな庭園デザイン」の地位を持ち続けるのではないかと思う。
京都の桂離宮は、建築家ブルーノ・タウトが絶賛して世界的に有名になったが、竜安寺の石庭も同じく、外国での評価も非常に高い。

今回の二つの石庭を見て、禅寺の石庭の意味するものは何なのだろう・・・作者の発想の基になる考えは何なのだろうと考えさせられた。
私が思うには、臥竜の石庭の創案者、義天玄承は、一言で言うならば。
「無常」の世界に存在する「禅宗」の「常」的な存在を石庭で現したのではないのだろうかと思う。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で教わった「諸行無常」は、「われわれが経験するものは恒久的でなく変化する」という意味で、ごく一般的には「無常」は、生命のはかなさ、もろさを表す言葉と思っている人も少なくないでしょう。

室町以前の寺の庭は、自然(植樹)美を尊重して、樹木を中心にした庭園設計が主流であった。しかし樹木は生き物であり、季節で風景が変わり、枯れたりもする「無常」そのものである。
しかし石と砂で作る石庭は、季節も関係なく、また枯れもしない。つまり千年でも万年でも変わらない「常」の世界を現し、禅宗そのものの存在が無常の世界での唯一の常であることを、義天玄承は示したかったのではないかと思う。


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